研究コラム 〈スケート文化が根ざす場所〉

第一回 スケートリンク放浪記
 —— パーソナル・ヒストリーから見えてくるスケート環境の実際 (2020.4.1)

パーソナル・ヒストリーを語る前提

 本連載第一回では、現在のスケートリンクが直面している危機的な状況をより具体的に捉えるために、選手時代における筆者自身の練習環境を、元一選手の側からの「ケーススタディ」(事例)として語ってみたい。ここで敢えて選手時代の自分を語るのは、1980年代にみられる豊かなスケート環境に陰りが見え始めた頃から、キャリアをスタートさせた選手たちが置かれている環境 —— つまり、現在進行形のスケート環境を改めて考えるための示唆を多々含んでいるからである。そのため以下に展開されるパーソナル・ヒストリーは、(1)「スケートリンク減少の現実」および (2)「施設の経営方式とその性格」を要点として記述されている。

町田樹のケーススタディ

 1993年、当時3歳の私は千葉県松戸市に住んでいた。週末になると日用品の買い物をするために家族で近所の大型スーパーに出かけるのだが、その中にいつも大勢の人でひときわ賑わう場所があった。その場所こそが「新松戸アイスアリーナ」(=完全民間経営型リンク)なのである(註1)。スーパーマーケット(ダイエー新松戸店)にスケートリンクが併設されていることなど、今や誰もイメージすることができないだろう。そこはスーパーの1階から2階までが吹き抜けとなっており、その広大な空間に公式サイズ(60m×30m)のスケートリンクが設置されていた。そのため買い物をしながら、窓越しにスケートリンクの様子を眺めることができる設計になっていたのである。当時、買い物のついでにレジャーやレクリエーション活動の一環として家族でスケートを楽しむという光景は、決して珍しいものではなく、私も幼いながらに興味を抱いていた。

 そのような中、このスケートリンクで開講していた子供向けビギナークラスのスケート教室に、3歳の私は友だちに誘われて初めて参加したである。その後、ビギナークラスで初歩的なスキルを身につけた私は、1994年にインストラクターに師事し、本格的に選手活動を開始することとなった。このリンクでは初級から上級選手までの育成を、一貫した指導体制で実施していたことに加え、週末になるとレジャーとしてのスケートを楽しみに、多くの人が足を運んでいた。今にして思えば、「選手育成としての場」と「レジャー活動を提供する場」の両者がバランスよく共存しているスケートリンクであったと言える。しかし残念ながら、2002年このスケートリンクは閉鎖されることになった。
 それから4年が経過し、小学校に入学する頃(1997年)、当時師事していたコーチの職場移動に伴い、新松戸アイスアリーナから「川越スケートセンター」(=完全民間経営型リンク)に拠点を移すことになった(註2)。このスケートリンクも東武東上線川越市駅の目の前という立地条件も味方し、多くの選手、レジャー客が利用する施設であった。私自身も親の転勤で広島県に引っ越すことになるまでの約3年間、コーチの指導を受けるために毎日放課後に松戸市内から電車で通っていた。しかしながら、このリンクも開館から41年という歳月が建物の老朽化を進め、ついに2016年4月7日をもって閉館することになるのであった。

 さて、引っ越した先の広島県には唯一、広島市が運営主体となっている「広島ビッグウェーブ」(=公設民営型リンク)というスケートリンクが設置されていた(註3)。このリンクは公式サイズのリンクの横に、サブリンク(18m×30m)が設置されているほか、観客席が3,000席ほど設けられており、全国規模の大会やアイスショーを誘致できるほどの大型施設として位置づけられる。しかし、この施設はスケートリンクの運営を11月から4月までの半年間に限定しており、それ以外の期間はプール施設として運営されることになっている。このように自治体が運営主体となっているスケートリンクは、往々にしてプール事業と折半する形で運営される施設が多い(註4)。そのため選手は練習場所を求めて、いわばジプシーのように近隣のリンクへと遠征しなければならない状態が生じるのである。また自治体によっては厳しくリンクの使用規制を定めており、一般営業時間における選手の練習を禁止する施設も少なくない。
 私も例外ではなく、中国地方に点在するスケートリンクはおろか、遠くは福岡県に至るまで、日夜、車で通わなければならなかった。中四国地方では岡山県に唯一の通年運営のスケート場である「岡山国際スケートリンク」(=完全民間経営型リンク)が設置されており、春〜夏の期間は大抵そこに通って練習を行っていた。このリンクは中四国地方の各地からこぞって多くの選手が集うスケートリンクである。民間経営のスケートリンクが全国的に軒並み閉鎖に追い込まれている中、岡山国際スケートリンクは中四国地方のハブ・リンクとして運営を継続させている。ここは通年運営であるため、年間を通して安定した練習環境が整備されている反面、需要が多い分、施設の利用者が過多になり易く、かえって練習時間の確保が困難になることもしばしば見受けられた。そのため各クラブや各コーチがリンクの貸切時間を共有するなどの工夫によって、練習時間確保のためのタイムマネジメントが図られていた。このように広島に引っ越してからというもの現地のスケートリンクを拠点としながらも、同時に各地のスケートリンクを転々とする日々を過ごしていた(註5)。ところが2008年に関西大学へ入学したことを機に、環境は一変し大阪に拠点を移すことになったのである。

 関西大学が保有する「関西大学たかつきアイスアリーナ」(=大学経営型リンク)は2006年に開館した比較的に新しいリンクで、施設設備が何不自由なく整っている。原則、関西大学に所属する学生は相当な時間、無料でこのリンクを使用できる環境にあった。しかし、同大学アイスアリーナに専属するコーチ以外の「指導者」は、このリンクには入れないという独自の規定がある。従って当時、大阪府守口市にあるスケートリンクの専属コーチに師事していた私が、関西大学のスケートリンクを使用する際には、コーチ不在で自主練習をするほかない状態となっていた。そのため師事していたコーチが所属する「守口スポーツプラザVIVAスケート」(=公設民営型リンク)が実質的な拠点となっていたのである。
 守口スポーツプラザVIVAスケートは、1987年に住宅・都市整備公団(現都市再生機構)が設置したスケートリンクである。開館当時は冬にスケートリンク、夏にプールとして利用されていたが、2006年より通年運営のスケートリンクとして転換を図った施設である。同施設は関西各地の「大学の部活動を行う場」、あるいは「選手の練習場」、そして「市民のレジャー活動を支える場」として機能していたスケートリンクであった。しかし、残念ながらここも2017年3月31日に閉館してしまった。施設を保有する都市再生機構は閉鎖の理由として施設の老朽化を挙げているが、設置から30年にして早くも閉館になってしまうことはあまりにも惜しいことである。

 さてこのように、関西大学に通いながら守口市のスケートリンクで練習に励む日々であったが、2011年から2年間、今度はアメリカ・カリフォルニア州レイクアローヘッドの「アイスキャッスル・インターナショナルトレーニングセンター」(=完全民間経営型リンク)にスケート留学を決意した。

 このリンクは、サンバーナーディノ国立森林公園の中にあるレイクアローヘッドという湖を中心に形成された風光明媚なリゾート地に設置されている。ここは1983年の開館以降、ミシャル・クワン(Michelle Wing Kwan, 1980-)をはじめとする数多くのスター選手を支えてきた実績を持つ伝統あるスケートリンクである。夏季には独自のスケーター育成プログラム(サマープログラム)を実施し、毎年世界各地より競技者のレベルを問わず大勢のスケーターが集まる世界でも稀なスケートリンクでもあった。このリンクは基本的に「一日中選手のためにのみ」稼働しているため、世界各国のトップスケーターの練習拠点として選ばれる傾向にあった。私が練習拠点としていた2011年から2013年の間も、浅田真央、エヴァン・ライサチェク(Evan Frank Lysacek, 1985-)、アダム・リッポン(Adam Rippon, 1989-)、アシュリー・ワグナー(Ashley Wagner, 1991-)、デニス・テン(Denis Yuryevich Ten, 1993-)などの各国トップスケーターがここでトレーニングに励んでいた。しかし、この伝統あるアメリカのリンクですら、経営難という壁が立ちはだかることになる。初代経営者であるキャロル・プロブスト(Carol Probst, 生年月日不明)から経営を引き継いだアンソニー・リュウ(Anthony Liu, 1974-)は、2013年夏に突如アイスキャッスルを閉館することを決定した。これにより世界中のトップスケーターを支えた「氷の城」でさえも、ついに落城することになるのであった。

 アイスキャッスルが閉館するという衝撃的なニュースを受けたものの、復学予定でもあった私は、アイスキャッスルから大阪府高石市にある「大阪府立臨海スポーツセンター」(=公設民営型リンク)に、幸いにも拠点を移すことができた。これ以降、2014年12月28日をもって競技者を引退するまで、このリンクで過ごすことになる。大阪府立臨海スポーツセンターは、1972年に開館した大阪府が事業主体となっている複合スポーツ施設である。このリンクもかつて髙橋大輔などの日本のトップ選手を支えたリンクとして有名だが、実は(多くのスケートファンの記憶には新しいが)、大阪府の行財政改革によって、2008年には施設の廃止がほとんど決定されていた。しかしその後、2009年に施設利用者を中心に構成される「臨海スポーツセンター支援の会」が結成され、施設存続を目的とした活動が開始される。そしてこの団体のたゆまぬ努力(署名活動、募金活動など)と、1億円に近い額の奇跡的な寄付者の出現によって、辛くも2013年に施設の存続と改修が決定することとなったのである。

ケーススタディを通して見えてくる事実

 ここで上述した施設を一覧化した【表1】をご覧いただきたい。このように一人の選手活動の軌跡を振り返ることでわかることは、施設の事業主体や立地条件等が異なることで、各リンクに一長一短の特徴があるということである。またここで紹介したスケートリンクは合計8施設あるが、そのうち実に半数にも昇る4施設が、すでに消滅しているのである。この事実は、スケートリンクの危機的状況がたった一人の元選手のパーソナル・ヒストリーに照らしても現実のものであり、延いては今、実際に活動している選手一人一人が常にこれらのリンク問題にさらされていることを如実に物語っているのである。


© 町田 樹

【註】

  1. 註1:
    1981年からダイエー子会社が経営していたスケートリンク。当時、都筑章一郎氏、長久保裕氏、佐野稔氏、岡島功治氏、無良隆志氏などの有名コーチが在籍しており、井上怜奈、川口悠子、竹内洋輔、岩本英嗣、武田奈也等のトップ選手を多く輩出した。残念ながら経営難に伴い、2002年に閉鎖することになる。
  2. 註2:
    1974年10月から2016年4月までの間、約41年間にわたり運営されていたスケートリンク。
  3. 註3:
    広島市総合屋内プールの別称。1991年に開館し、過去には「NHK杯国際フィギュアスケート競技大会」などの世界大会を開催する場としても利用されている。
  4. 註4:
    例えば、「江戸川区スポーツランド」(東京都江戸川区)、「ガイシアリーナ」(愛知県南区)、「京都アクアリーナ」(京都府右京区)、「大阪プール」(大阪府大阪市港区)、「なみはや(東和薬品RACTAB)ドーム」(大阪府門真市)も同様にプールとスケートリンク事業の両者を展開する施設である。
  5. 註5:
    筆者は当時、広島ビッグウェーブの他に、岡山国際スケートリンク(岡山県岡山市)、ヘルスピア倉敷アイスアリーナ(岡山県倉敷市)、下松健康パーク(山口県下松市)、サンビレッジ浜田(島根県浜田市)、湖遊館スケートリンク(島根県出雲市)、日本海リッチランド(鳥取県鳥取市)、飯塚アイスパレス(福岡県飯塚市)で練習を行なっていた。

※本コラムの文章・図表を引用もしくは典拠とする際は、以下のように出典を明記してください。

町田樹「パーソナル・ヒストリーから見えてくるスケート環境の実際」『研究コラム —— 汽水域の哲学』町田樹公式ウェブサイト, 2020年4月1日, available at http://tatsuki-machida.com/column/001_skatelink.html

町田樹(2020 Apr.)「パーソナル・ヒストリーから見えてくるスケート環境の実際」『町田樹公式ウェブサイト研究コラム —— 汽水域の哲学』 available at http://tatsuki-machida.com/column/001_skatelink.html